懐旧・塩の道

                   

立花三千男

  江戸時代、天領行徳は塩のまちだった。幕府の庇護を受けて拓けた塩田のまち。
その行徳塩が毎日、船で江戸へ運ばれた。その航路は後に「塩の道」と呼称され、
今日、格好の散策コースとなっている。

一. 元禄十五年十二月十四日。夕刻六時 行徳海岸 笹屋うどん。
最後の行徳船が着き河岸が静まる頃、村の長や塩商人たちが集まってきた。
江戸から届く塩市場の急変、これぞ行徳衆を困惑させる大難題であった。
元和偃武の世、江戸は人口が膨張し、深刻な塩の不足が露呈していたのだ。
そこへ瀬戸内から大量の塩が流入し、特に赤穂塩が行徳塩を席巻していた。
行徳には塩田を拡張する余地乏しく、塩市場から行徳塩が押される現実に、
妙策を出せない行徳人の苦悩と焦り、天領人の矜持も萎え彼らは嘆息した。

ニ. 同日 深更 江戸本所
本所辺では暮夜から慌しい動きが…火事装束に身をやつした一団がいた。
これぞ乾坤一擲、吉良邸を急襲する四十七人、播州赤穂の浪士であった。

三. 翌朝 午前七時半 永代橋の遭遇
早暁の死闘を制した浪士らの鬨の声。吉良の首級を高々と掲げ行軍の彼ら。
目指すは主君が眠る高輪の泉岳寺だ。一行は萬年橋から永代橋へと急いだ。
小半刻前の細流日本橋川の行徳河岸。まさに今、帰りの行徳船が離岸した。
やがて大川 ( 隅田川 ) にさしかかる。その時、船頭が目にしたものとは?
永代橋を縦列で渡る異形の侍たちのどどっと響く足音と雄叫びと騒めき。
この景を凝視した船頭は首を捻った。そしてごちた、「はて、面妖な……」。
永代橋の邂逅、奇縁の遭遇なのだが、史書はこの場面を物語ってくれない。
江戸中を沸騰させた浪士らの快挙は、後に忠臣蔵の名で人口に膾炙された。
 注@ 当時の永代橋(元禄十一年架橋)は日本橋川に架かる豊海橋の側にあった。
  A 永代橋と一帯を描いた広重の浮世絵が豊海橋の袂に展示されている。