島原・天草を旅して

立花三千男

1.−期一会
 この3月、熊本県在住のM氏夫婦が私達を尋ねてこられた。彼らは晩年を赤穂で暮らしたいと赤穂の実情調査にやってみえたのである。市のHPに私達のグループ『穂愛留』(ほめ−る)のHPがつながっていて、折々照会メールが舞い込む。M氏はその何番目かの方になる。こういう方々は将来の市民(穂愛留の仲間)という訳で、私達は最大限のお手伝いを行っている。手分けして市内を案内したり、不動産業者を紹介したり、まれに会食までする。
 M氏の場合は当地に宿泊され、また大変愉快なご夫婦であったので仲間何人かを誘い小宴を設けた。お互い波長が合ったんでしょうね。一夜にして十年来の知己のような関係が生じ、M氏は(私の身軽な立場を知られ)私に九州旅行を勧誘されたのである。
 以下は、そのご好意に甘えて実現した旅行記である。

2.島原半島から天草諸島縦断ドライブ
 前夜、私は山陽新幹線、九州新幹線を乗り継ぎ新玉名駅(熊本の手前)に着いた。宿 はM氏宅で、駅でご夫婦の出迎えを受けた。当初、ホテルを予約するつもりであったが、「ご遠慮なく」とのご好意に甘えてしまったのだ。その夜、早速の酒宴であった。
 「朝食は雲仙のホテルで・・・」と早朝6時には出発。猛烈な雨の中、長洲港から島原へはフェリー、その甲板に立つ。雨のせいで視界が悪い。「あそこらに雲仙岳が見えるのですが・・・・・」とM氏が残念がる。私は雨霧を通し、かすかに遠望できた島原半島に思いを馳せた。いよいよこれから島原・天草の旅が始まるのだと、高揚・興奮を感ぜずにはいられなかった。

 島原半島に上陸、雲仙のホテル街を目指す。道中、強く感じたのは島原半島の起伏に富む地形だった。平坦地が少なく、狭隘な土地に棚田が続く。
 島原の乱は隠れキリシタンらによる宗教一揆の色彩が濃いが、事前学習で読んだ司馬遼太郎の『街道をゆく』(島原半島・天草の諸道)に「島原の乱の本質は宗教一揆ではなかった」とあり、当時の支配者・松倉勝家の苛斂誅求に対してやむにやまれぬ人々の蜂起だったとの記載が頭をよぎった。
 「気候不順による凶作は寛永11年(島原の乱は14年)から連年続き、14年には餓死者が急増。勝家らはいよいよ取り立てを厳しくし、租税を収められない者はなぶり殺された。いろいろな刑殺法が考案された‥‥」などの記述が思い出された。同書にはそのおぞましい殺人法が詳しく紹介されていて気分が悪くなる。
 松倉は名うての悪政家で勝家は2代目だ。代々、「搾れば搾れるのだ」を実践したとあり、乱の後、幕府は勝家の政治を調べ勝家を打首にしたほどである。私は車窓に展開する島原の起伏に富む風景を眺めながら、このような農業に貧相な土地柄での凶作ではもう救いがないのではと思われた。ただ、私は国道389号を南下しただけなので、半島全土の様子は分からない。ではなぜ、松倉家がこうまでひどい政治を行うに至ったかについては同書に詳しいがここでは割愛する。

 島鉄フェリーに乗り、いよいよ天草だ。天草は120余島からなる、まさに諸島である。一番大きいのが下島で淡路島とほぼ同じ大きさ、西岸を右に見ながら南下したが、島原半島と同じ感じを持った。やはり平坦地が少ない。後年、キリシタン禁教令が出て天草は隠れキリシタンが多数潜む場所になるが、陸地側の景観は次々と地形が変化し遮られ、前方が見通せないといった感じで、これは隠れるのに最好適地だと思った。
 苓北町を下る。M氏から、「右手の天草灘海上遥かに、中国の江蘇省(雅称・呉)、浙江省(同・越)なんですよ」と説明される。地図を改めて見る。古今、渡来人が稲作が日本に到来したといわれる海の道である。ここいらに立つといかにも日本の西端に来た感じで、東京の政争も原発論争も遥かに遠く、思いは海の道であり天草キリシタン受難の歴史だ。
 日本へのキリスト教伝来は1549年、天草へは17年後の1566年。まず天草五人衆という当時の天草の土豪・城主(小領主)の一人が、その後全員が入信している。 書には、当時の権力者(天草に限らない)は南蛮人がもたらす貿易の利や新種武器などを狙い競って入信したとある。領主が入信すれば家臣も領民も倣う。キリシタン大名が九州や近畿で多数誕生する。1582年(この年、本能寺の変)、天正遣欧使節として4少年がローマ教皇に派遣される。この頃のキリシタン人口は全国で15万人(イエズス会の把握、成人のみ)で、1598年がピークで30万人に達している。

 1587年、秀吉は九州を平定。その帰途、秀吉は長崎がイエスズ会(ポルトガル)の領土になっていることに愕然となる。もし秀吉の九州平定が遅れていたら、長崎がマカオのようなヨーロッパ人の日本侵略の拠点になっていたかもしれない。同年のバテレン追放令に続き、翌年長崎を没収し直轄領としている。
 2年後に肥後・天草の合戦がおきる。前年、宇土城主に任命されたキリシタン大名小西行長は秀吉から加藤清正(行長と同時期に熊本城主)とともに天草誅伐を命じられる。当時の天草はキリシタン領主のもと信徒が多数いて禁教令が出てからも信仰を捨てず、カトリックの教えに背く権力を撥ねつける風土が根づいていた。禁教令にも関わらず、行長が起用されたのは秀吉はキリシタン統治でむつかしい天草を征伐するにはあえてキリシタン大名の行長を起用、その監視役として武断派の清正をつけた(森本繁著『小西行長』)。
 これで天草側は屈服、天草は行長の領土に組み込まれた。この時の合戦で本渡城落城で1000余人(300人ばかりは婦人軍)が殉教、天草島内最大の殉教者となった。これらはフロイスが記録した『日本史』に出ている由だ。

 行長は同じキリシタンとして天草に善政を敷いた、が1600年の関が原の合戦では西軍につき敗北逃亡、行長は捕らえられ斬殺される。天草は寺沢堅高支配に変わる。
 1613年に全国禁教令、天草から次々と神父が追放され、キリシタンヘの迫害が強行される。1627年、長崎奉行が信徒340人を処刑、1629年、長崎で踏絵が始まる。天草でも転宗を迫る迫害、拷問の嵐が吹き荒れ、転びキリシタンや隠れキリシタンが誕生していく。  そして領主による飽くなき苛斂誅求、それはかって南蛮貿易で利を得てきた領主らは、禁教令以降の減収を領民からの収奪に切り替えたからで、連年の凶作もありそれは過酷壮絶を究めた。こうした背景を受け1637年、島原・天草の乱とつき進んでいく。  まず天草の農民が領主寺沢氏の富岡城を攻め、半島側も相呼応して領主松倉氏の島原城を攻めた。武器もない農民らが組織的に政権に反抗したのである。それも対岸と同時に。司馬は「日本史上の圧巻といっていいだろう」と書いている。

3.今、思うこと
 島原・天草の乱を表層的に見れば、九州西端での為政者に対する農民やキリシタンによる反抗で、全国統−を成し遂げた徳川政権に弾圧されてしまった事件、 それにポルトガルやスペインらの当時の植民地主義がからみ、対応を誤れば日本の命運も危うかった事件ということになるだろうか。
 しかし、この度の探訪を終えて思うことは、この事件は当時の日本がいずれ外交で内政で直面せざるをえない諸々の矛盾、難題が この地に集結して発火したものとの感慨を持った。帰宅して類書を読み進めば、次々と関心が沸き、歴史読み物としても格別のスケールでありかつおもしろいのだ。 折よく市川森一(脚本家)の『幻日』(講談社)が書店に並んだ。帯には「『島原の乱』が感動の抒情詩となって蘇る」とあり、 「島原に散った、天草四郎『幻の夢』、九州キリシタン王国建国は、目前だった!」と私の今の高ぶる心情にぐっとくるキャッチフレーズだ。 しばらくはこれに没頭したいと思う。
 歴史にからむ旅、これこそ旅の醍醐味である。私は最近こうした旅を楽しんでいる。 今回の旅ではM氏夫妻からVIP待遇を受けた。次の日は柳川へ、「九州にみえたからには柳川藩の立花宗茂にご挨拶しないといけませんよ」、 とか言われてのこと。観光名所の記述は割愛させていただいたが、雲仙観光ホテル、大江天主堂、崎津天主堂、天草コレジョ館、サンタマリア館、 柳川では柳川御花(旧藩主立花邸)、白秋記念館などを訪ねた。帰路は博多で級友に会い、太宰府を散策、夜は天神で美酒と放談に時を過ごし 最終新幹線で帰った。いろいろ良い思い出を満載して。

   崎津天主堂の尖塔がそびえる港町津崎
   宇土半島から落日の島原半島を臨む
   天草上島から天草五橋を見渡す


(2011年6月29日)