「分ける」と「分けない」、    
    そして「偶然」ということ

櫛田孝司

  このところ、『お釈迦様の教えは現代科学と矛盾するか』という問題に興味を持ち
研究しているが、先日の仙珪和尚百回忌の折に花岳寺で住職にお目に掛ったので
そのことをちょっとお話した。住職は、即座に、科学はものを分けて観るが仏教は
そうではないという趣旨のことを言われた。また、私が『偶然』ということを口に
したのに対して、仏教では偶然ということは言わないと仰ったのが強く心に残った。
確かに、お釈迦様が言われるには、全ての事象は因と縁とによって起こるもの
であり、世の中は無数の因と縁がからまりあっているのであって、偶然というか、
全くランダムに起こるというものは何一つない、ということになるのであろう。
  「科学は分けたものを相手にするのに対し、仏教は分ける前のものを相手にする
のだ」と鈴木大拙師も述べておられる。科学の出発点はデカルトが物質と精神を
分けたところにあるとよく言われるが、仏教者が「分ける」というのはこのことを
指すのであろうか。現代の科学では、事象と観測者(の精神)とは分けられない
ことがはっきりしているのだが。
 ところで、文化庁長官であった河合隼雄氏は、2007年、赤穂で講演をされることに
なっていて、私も楽しみにしていたが、その直前に急逝された。そのちょっと前に
実現した小川洋子氏との対談が「生きるとは、自分の物語をつくること」という本に
なっているが、その中で、河合氏は「分けられないものを明確に分けた途端に消える
ものを魂という」と述べておられる。また、「(心理療法士として)患者と苦闘を
続ける時、解決の重要な要素として『偶然』ということがあるのを認めざるを
得ない。共に苦しんできた者にとって、それは『内的必然』とさえ呼びたいのが実感
であるが、外から見る限り『偶然』としか呼びようのない『うまい』ことが起こる」
とも言っておられる。
 さらに他の対談では、「『仏教は因果律と偶然の出会いとの両方を同時に捉える
論理をもっているけれども、近代科学では因果律はわかっても縁=偶然は
わからない』と南方(熊楠)は指摘しているが、これはすごいことです。
どうしてかというと、偶然ということが出てくるのは1905年頃のことで、南方が
偶然、必然、因縁ということについて書いた1903年には未だなかったのです」
と述べ、さらに「『近代科学』では『偶然』は解けない。近代科学が『偶然』として
捨て去っていたことを入れ込んでこそ、科学的研究は発展するのではないか」と
続けておられる。
 現在、取り組んでいる研究を早く本にまとめて、この『分ける』と『分けない』の
境目にあるというものや、『偶然』として捨て去られていたことについて研究して
みたいと考えているが、とても歯が立ちそうにない。
(2011年12月24日)

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