なぜ赤穂がそれほど気に入ったのか

櫛田孝司

  私は「赤穂賛歌」で赤穂を賛美しました。赤穂のすばらしさは実際に住んでみれば大方の人が納得すると思いますが、私の場合、なぜそんなに気に入ったのかと改めて考えてみますと、育った環境に関係があるようにも思います。
  私は札幌に生まれ、小学校の低学年時代には北海道の中を転々としましたが、戦後は札幌で暮らしました。当時の札幌は広い道路が碁盤の目に通っていて、山々が近くに見え、大都会となった今とは異なりのんびりした街でした。そのような環境で育った故か、広々とした自然環境に恵まれたところが好きで、大学時代こそ杉並区の街中に下宿しましたが、結婚後は仕事場から遠いにも拘らず、湘南の海に近いところに住居を構えました。30歳代の初め、ニュージャージー州で1年半ほど過ごす機会があり、よく車でニューヨークへ行きましたが、人と車と建物でごった返していて、ハドソン川を越えてニュージャージー州に戻るとほっとするという経験を何度もして、ますます郊外が好きになりました。40歳代に仕事の関係で大阪に移りましたが、箕面の森の近くで、家から200メートル先は森のまま残して開発はしないというところに住むことにしました。
  5年前、職を退いた時、いよいよ終の棲家を考えることになりましたが、既に両親はなく、いわば世界中どこを選ぶこともできる状態で、いろいろ迷いました。結局、自然が美しく広々とした赤穂がとても気に入り、また、共働きの長女夫婦の子供の面倒もみてやれるということが決め手となって赤穂を選んだわけですが、住んでみて想像していた以上に良いところであることが分かり、今では赤穂選択は大正解だったと心底満足しています。私が住んでいるあたりは、まっすぐな広い道路が通っていますが渋滞することもなく、静かで山が見え、清らかな川が流れ、故郷を思い出させます。街もコンパクトで安全で、真夜中に翌朝のパンを自転車で買いに行くことがあります。
  私の思いは「赤穂賛歌」にまとめましたので繰り返しませんが、赤穂の特殊事情について一言つけ加えることにします。それは、赤穂の主力産業は長い間、製塩であり、海岸には広大な塩田が広がっていたのですが、塩田が昭和47年に全国いっせいに廃止になったことです。これにより、広大なまっさらの平地が急に発生したわけで、ここに大きな県立海浜公園を含む近代的なすばらしい町が作られました。千種川の西側の一部は工業地帯になりましたが、昭和50年頃には既に環境を守ることの重要性は広く認識されており、居住地区と一線を画して非常に近代的な工場や倉庫がそこに作られ、その周りは緑に覆われ清潔で、環境に関しては不安感は全くありません。この塩田の開放こそが、赤穂を非常に魅力的な街にしている秘密の一つであることは間違いありません。もちろん、中心街の外側には青々とした畑が広がっていますし、海が近いことから来る何んとも言えない解放感があり、清流とその河川敷の存在や庭を訪れる多くの小鳥達は心を癒してくれます。近代的な町と歴史的な遺跡、そして都会から離れたすがすがしさを同時に味わえるのが赤穂の魅力だと私は思っています。
  引っ越して来た当時は長女一家のほかには知人もなく、少し土地の人々に溶け込まなければと、近くの高齢者大学に入学しました。この大学のいろいろな催しに参加することにより次第に友人もできました。この大学の良いところは、4年間で卒業ではあるものの、その後、大学院に相当するカレッジに進むことができ、希望すればいつまでも学生でいられることです。実際に、昨年、1泊旅行に参加したところ、87歳の人や90歳代の人が意気盛んに舞台に上がり、大声でカラオケを歌って聞かせるのにはびっくりしました。
  高齢者大学で知り合った人たちは殆どが生まれも育ちも赤穂で、お互いに顔見知りです。そういう中で、私も少しずつ輪の中に入れて頂いていますが、最近、『穂愛留』の発足により、赤穂の外から移住した方々との交流が始まり、ますます赤穂での生活が楽しくなりました。

(2007年7月20日)

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