Uターンから穂愛留まで

立花三千男

  昨年の夏、私は赤穂市に1通の手紙を出しました。思えばこの手紙への返事から赤穂に住むことを決め、いまこうして赤穂人におさまっている訳です。私の郷里は赤穂市の北端(有年)にあり、交通網から判断する限りJR山陽本線や国道2号線が通る相生市が便利なので、相生駅周辺を住む候補地に挙げて検討していました。
  赤穂市から丁重な返事といろいろな資料が届き、その中の市内循環バス「ゆらのすけ」の資料は実にありがたいものでした。赤穂中心部と有年東部とを結ぶ週2日の便(運賃が100円!)があり、私の実家や畑のすぐ側を通ることが分かったからです。私の心は決まりました。赤穂市内に住もうと。
  私は数年前から神戸からの通い農業を始めていました。亡父から相続した土地があり、両親の墓地もある有年はいずれ帰らねばならない故郷でした。ただ、高校時代まで過ごした家は長年の無人で半壊状態にあり、私は借家を決める必要があったのです。

  転居後市役所を訪れた私は、市が「定住化」推進政策を取られていること、そして私のUタ−ンが「定住化」の好事例になっていることを知りました。
  赤穂に住んでみて感じたのは、市の資料が示す「住むのにちょうどいいまち 赤穂」の実感でした。わが本籍地は赤穂ながら、赤穂のこのような良さは全然知らなかったのです。
  私は赤穂の良さを実感するにつけ、また赤穂市の定住化推進運動の詳細を知るにつけ、ルーツが赤穂の人間として、市民レベルから市のこの運動に協力したいと思いました。
  私が思ったのは、新規定往者がいかに赤穂の住環境に満足できようとも、良い仲間ができるかどうかも大きな関心事だろうということ、それは50年ぶりUターンの私が感じていたことでもありましたから。そこで市の担当者に、「定往者の集まりのような組織がありますか」と尋ねたのです。「なければ、私が企画しましょうか」、とも。

  『穂愛留』構想は、実はここからスタートしました。「それには、同じ思いを持たれている櫛田さんを紹介しましょう」とのことで、ほどなく櫛田さんとお会いしたのですが、櫛田さんは元大学の先生で温厚な紳士、櫛田さんの赤穂を思う赤穂賛歌を伺う内、私はハートが熱くなくなるのを感じ、以心伝心、この瞬間、わがこと成れりと思いました。
  3月のある日、市役所会議室での何度目かの打ち合わせには神戸新聞記者が同席、記者は後に同紙の連載コラムで「・・・…『新住民が気軽に集えるサークルを作りたい』、二人はすぐに意気投合した。」と書いています。私が思い描いたイメージは、かって東京在住時代の平成7年、畏友K氏に出会って『昭和12年100人の会』を構想、成功させた体験があり、できればここ赤穂では「赤穂大好き」をキーワードに新規定住者の会を発起させたいと思ったのです。

  櫛田さんから北原さんに声をかけていただき、ここに発起人3人が揃い、さらに何度かの打ち合わせを経て『穂愛留』結成に至ったのです。『穂愛留』の名称は、この私達の思いを見事に託して表現されていると発起人一同は自画自賛ですが、北原さんの奥様の命名です。私は『穂愛留』の役割分担として世話役に就き、組織の維持発展、赤穂人としてIターン、Jターンの方々との円滑な交流にも腐心したいと思います。

  家内は滋賀県出身で赤穂での暮らしは初めてですが、現在では多くの友人ができ、何ら過不足なく元気に幸せに赤穂生活を満喫しています。もちろん『穂愛留』の同人です。

(2007年7月20日)

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