穂愛留十年の思い出

櫛田孝司

 私は67歳で大学を停年退官して、すぐに赤穂に移り住んで十年余りになる。移住の
主目的は、赤穂で共働きする長女に子供ができたので、孫の面倒を見て応援して
やろうということであった。
 何度か赤穂を訪れ、良い所だと思っていたが、実際に住んで、方々を走り
回ってみると、思っていた以上に素晴らしく、たちまちこの街が大好きになった。
そこで「赤穂は良い所だなあ」と褒め合いながら一緒に酒を酌み交わせるような
友人が欲しくなった。しかし、娘一家のほかには知り合いとて無く、嘆いていた
ところ、市役所を通じて立花、北原両氏と知り合う機会を得、話し合う中に外から
赤穂に越してきて住むことになった人達のグループを作ろうではないかということに
なった。
 立花氏は東京で昭和12年生まれの人達のグループを作り、メンバーを百人にまで
増やしたというノウハウを生かし、話はスムーズに進んだ。また、このグループの
「穂愛留」という素晴らしい名前の名付け親は北原夫人であった。そして常深夫妻も
加わって、四組の夫婦でグループの最初の会合が市役所の一室をお借りして行われた
のが、ちょうど今から十年前のことだった。
 そこで、どういう訳か私が代表に推されて、北原氏が副代表、立花氏が世話人という
ことで会が発足した。そして、月に一度、例会を持つことになり、何度か皆で話し
合う中に、まずはメンバー間の親睦や情報交換、赤穂関連の事柄についての学びなどが
主ではあるが、さらに、今後、赤穂に移住を考えている人達のために、情報を発信
したり、質問に答えたりし、また、赤穂のためにも何がしかの貢献をしたいと
いった風に、グループの性格が形づくられて行った。
 そこで、グループのホームページを作ってグループの紹介だけでなく、赤穂の宣伝
なども始め、さらに例会では、メンバーの誰かがスピーチをしたり、外部の方にお願い
して話をして頂いたり、また皆で食事会、見学会、花見会、観月会などを開いたり、
いろいろな活動を行った。さらに立花氏が歌詞を書いて外部の方に曲を付けて頂いた
「穂愛留の歌」は、例会の最初に皆で歌う習慣になった。
 また北原氏が中心になって進めたのがホームコンサートで、最初は我が家の一室を
提供して、ソプラノの独唱から始めたが、毎年一回開催するようになり、最近では、
ハーモニーホールの一室を借りて百人もの聴衆を集めて開くまでになった。
 方々に皆で日帰り旅行をしたり、バス停にベンチを寄贈したり、市から土地を
お借りして、木や花を植えて小公園を作って赤穂市に寄贈したり、草木染めの
「のれん」を皆で作って、赤穂情報物産館に贈ったりもした。また、義士祭の折には
JR赤穂駅の改札口の前に並んで、近隣地からの観光客に参加のお礼と来年また来て
頂くことを願って言葉をかける「お見送り」なども行った。
 あっと言う間に十年が経ったように感じるが、穂愛留のお陰で、いろいろな方々と
知り合うことができ、小旅行、読書会、忘年会などなどを含めて、楽しい時間を
たくさん持つことができて、本当に良い老後を送ることができたと感謝の念で
一杯である。

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