回想 穂愛留
立花三千男
十年前、赤穂に帰省した時、三つの大きな目標を立てました。一つは、鬱病を
患っていた家内の健康回復、二つ目が先祖の遺品などを整理し(昨年、まとめて
市の教育委員会に寄贈しました)、亡父からの伝承や赤穂市史なども漁り、
先祖史を書き上げることでした(これは有年公民館の年刊郷土史に連載し、完結
しました)。そして三つ目は、郷里のための貢献でした。
市役所を訪ねた時にヒントを得て、穂愛留が目指した路線を思いつきました。
それは、赤穂には全国からいろんな方が来て住んでいるとの情報でした。
この人たちの集まりを作ろう、知恵や情報や人脈を結集して、赤穂のためにを
会の理念にしようと思いました。
この企画は櫛田さん夫妻との出会いでスタートします。ほどなく北原さん夫妻
とも知り合い、その後、松井さんや牟禮さん、阪本さんらが馳せ参じて下さい
ました。親交を重ねる過程で会の骨格ができ、そうそう、穂愛留の名前も皆さんで
相談した結果、北原さんの奥さまの秀抜なネーミングで即、決まったのでした。
実は当初、私の家内も名を連ねていました。後に作詞した穂愛留の歌は、
家内が体調不良で病床にあった時に、家内の感想を確かめながら推敲して
書き上げた歌詞でした。
穂愛留の活動の大きな流れや具体的な活動内容などは北原さんの麗筆に
お譲りして、以下、途中で退会のやむなきに至った弁を書かせていただきます。
家内が急逝して、もう七年前になります。三年前の左膝の手術後、もう
自力でのひとり暮らしは無理と思いました。いずれどうにもならぬ事態が
来る前に、息子らのそばに移ることを選択、昨年の七月に離郷しました。
赤穂も穂愛留も私の心のふるさとです。その穂愛留がもう十年ですか、
本当に素晴らしいですね。これからも穂愛留の灯が光り輝くことを遠くから
祈念しています。
私はこちらが終の住処になってしまいましたが、赤穂への思いは変わり
ません。赤穂観光大使のお役をいただいていますし、何かでお役に立ちたい
と常々願っています。