よき時代の赤穂の人づくり風土*

宮本一成

  今は見えにくくなっている「赤穂の古きよき時代」について話をさせて
いただきます。見えにくくという意味は、これらのことは、私の20年余の
参禅経験の過程で知ったことで、参禅の体験無しでは知り得なかったことと
思うからです。

1. 聖徳太子来訪の地 −天台止観実践で知りえた飛鳥時代の赤穂 −
   今は尾崎にある普門寺の「薬師如来の縁起書」に、「極めてみめ美しい大高の
 山容、たたずまいは全て南向きに位置し、気候風土は真に温暖、加えて土地柄
 風情はその昔、秦氏一族が苦力の末に開作せし帰化人有縁にて、生活なお
 貧しきうちにも人心極めて豊潤…」とある。この地に、百済・聖明王派遣の
 唐僧・恵総、恵弁が秦河勝の庇護を受けて生活した。また、彼らから仏教を教わる
 ために聖徳太子がこの地を訪れた故事が書かれている。秦河勝を祀る大避神社
 が坂越から千種川沿いに、有年、上郡、赤松まで五社有リ、仏教伝来の歴史に
 係った赤穂の昔が偲ばれる。

2. ここに義士達は300年余り坐っていた
  花岳寺の大晦日から元旦の行事、除夜の鐘の後、本堂で大般若経転読等
   一連の行事の後、3時ごろから6時まで三ちゅう、元朝独座を行じるように
   なって見えてきた事。
1) 義士木像は全て坐禅の目、半眼に彫られている。木像は木像館ができるまでの
    300年余り、今の坐禅堂に安置されていた。それを坐禅中にふと思い、木像を
   見直して気が付いたことです。それは、義士達が坐禅を行じていた事を示して
   いる。
2) 海音寺潮五郎著「赤穂義士」で、「動くや雷ていが発するごとく、静かなるや
   白雲の岫に入るが如き大石内蔵助の人柄は、禅の鉗槌により鍛え抜かれたもの
   と見て、しかるべき禅家についてたたかれていたものと見るべきとある。」
   と指摘している。
3) 元禄時代の赤穂の禅文化のこと。赤穂・浅野家家臣教育に影響した山鹿素行は
  沢庵和尚の禅を行じた人。それは素行・士道編「慎日用」に見られる。また、
  素行と同年に生まれ元禄7年逝去した盤珪禅師に大石始め義士の仲間が教えを
  受けた故事が辞世等に見られる。
4) 義士の一人、木村岡右衛門は、盤珪禅師からもらった法名を身につけて討ち入り
  し、泉岳寺で「思いきや わが武士の道ならで かかる御法の縁に逢うとは」
  の和歌を残している。浅野家家臣の「武士として死ぬ覚悟、こころを鍛える
  ための日頃の修行が思われる。これもまた素行の士道の実践である。因みに、
  岡右衛門は陽明学者でもあった。
5) 曹洞禅の名僧、良寛和尚は、義士たちを詠って漢詩を残している。これは義士達
   の行動に禅者の目で見て協賛するものを感じたからである。花岳寺本堂前の
   灯篭に彫られている月の兎の仏教説話は、また、良寛の好んだ話で、
   其の為に長歌を残している。
6) 赤穂尾崎の如来寺に、浅野長矩公の「座静知常」の書が残っている。これは、
  素行の士道・慎日用の言葉である。「静かに坐し、手を組み、平坦の気を養って、
  天地生々已むなきべし」の理を省みるの言葉を公が書いたもの。当時、公をはじめ
  赤穂藩に素行の教えがあり、其の教えで毎日座禅を行じる文化が有った証である。

3. 人づくり風土の復活を
  今、日本の世相をみるに、倫理・道徳の喪失が心配である。良き時代の赤穂の
  人づくり風土復活は、日本の為に是非とも必要である。たとえ300年かかっても
  為すべきことである。
(2008年6月25日)

*2008年6月の例会におけるゲストスピーチの要旨を寄稿して頂きました。

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