梅原猛先生の講演会
櫛田孝司
11月10日に、ハーモニーホールに於いて、赤穂義士会・赤穂市教育委員会の主催による梅原猛先生の講演会が開かれた。演題は、『秦河勝と能』であった。先生は、「隠された十字架 法隆寺論」「水底の歌 柿本人麿論」などの著書で知られており、日本文化の深層を解明する<梅原日本学>と総称される多くの業績で、平成11年に文化勲章を受章しておられる。ご高名な先生のお話ということもあって、客席400人程度の小ホールに500人くらいの聴衆が押しかけ、あわてて補助椅子を詰め込むという状態で、開始が遅れるほどの大盛況だった。大勢の聴衆に先生も満足のご様子で、80歳代とは思われぬ元気さで、ご自分の研究成果をかんで含めるように話された。以下では、配布資料も参考にして、お話の概要をまとめてみた。
話は忠臣蔵から始まった。四十七士の一人一人について墓も住居も分かっており、あまねく研究されているが、そのような例はほかには無いと断じられた。また、お芝居は道徳を教えるものでなければならず、一定の筋を持ち、深い哲理を含むものが優れているが、その意味でも、なんと言っても忠臣蔵は日本最大のお芝居であると述べられた。さらに、ご自分の創られたスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が二番目だと皆を笑わせた。
次に話は本題の秦河勝(ハタノカワカツ)のことに入った。秦氏は秦の始皇帝の末裔とも言われる渡来人のグループで、河勝はその首長として聖徳太子を経済的にも文化・技術面でも支えた人物だが、能楽の祖とも言われている。世阿弥の著わした『風姿花伝』には、「河勝は、猿楽の芸を子孫に伝え、摂津の国難波の浦からうつぼ舟(からっぽの舟)に乗って風に任せて西海に出て、播磨の国の坂越(シャクシ)に着いた」と書かれている。大化の改新の少し前、皇極2年に太子一家は滅ぼされ、河勝はおそらくは流されて、赤穂の坂越付近に着き、そこで死んだのであろう。
坂越の浦は絶好の港であり、かつては廻船業で大いに栄えた。その街の守り神が大避(オオサケ)神社であるが、そこに祀られたのが河勝の霊であると言う。坂越の浦に生島(イキシマ)という小さな島があるが、そこは祭りの日以外は入ることを禁じられているところで、手付かずの原生林に覆われ、島は天然記念物に指定されている。この島を特別に訪れられた梅原先生によれば、古い井戸など人の住んだ跡があり、円墳のような河勝の墓もあるとのことである。大避神社の宮司によると、河勝は皇極3年9月12日にこの浦に着き、4年ほど家臣とともにここで暮らした後、大化3年(西暦647年)に86歳で没した。そのように『社伝』に書き留められ、代々伝えられてきたそうである。これは時代的に話が合う。
坂越では、船渡御(フナトギョ)と呼ぶ船渡りのお祭りが旧暦の9月12日に対応する10月に行われており、瀬戸内海の三大祭りの一つとされているが、先生によれば、これはおそらく河勝の霊を鎮めるための人身御供の祭りであり、河勝が来た頃から続いているのではなかろうかとのことである。先生は、秦氏の氏寺である京都太秦にある広隆寺と大避神社の類似点や、これらにキリスト教の影が感じられることも指摘された。
さらに話は能のことに及んだ。能は賎民と言われた猿楽師、観阿弥・世阿弥らにより素晴らしい芸術として誕生し、徳川幕府はこれを武士の芸能として重んじることにより、いわば能を冷凍化した。そのため600年前のすばらしい劇を現在ほぼそのままの形で鑑賞することができる。能は怨霊を鎮めるものであり、怨霊ゆえにあのようにゆっくりした動きになる。南北朝時代には戦さのために何十万、何百万の単位で死者が出たが、それが室町時代に鎮魂の芸能として能が創られた背景にある、などいろいろのことを話された。
最後は、先生が日本の芸術の最高傑作ではないかとされる、世阿観が創った能『鵺』について述べられた。化け物である鵺(ヌエ)は、天皇を悩ませたために源頼政に殺され、河勝と同じくうつぼ船に乗せられて芦屋に漂着する。この能では、鵺の殺害の有様を頼政の側からと鵺の側からの両方の立場から語らせるという手法が使われている。この能は、極悪非道な鵺の鎮魂の能であろうが、その思想は親鸞の思想にも通じる。世阿弥は晩年、佐渡に流罪になるが、自分にそのような運命が待っているとことをどこかで予感してこの『鵺』を創ったのではなかろうかと先生は推論される。
お話の内容は大変に刺激的で興味深いものであった。この講演会は、先生の方から河勝と能について赤穂で話がしたいとお申し出があったとのことである。大変熱のこもった講演であるとともに、ユーモアを交えた軽妙な語り口で、1時間半にわたり聴衆は魅了された。
(2007年11月16日)